日本料理/塀を壊そう

■ 日本料理
ゴールデンウィークレジャー第一弾、
葉山「日影茶屋」で、お昼をいただく。
ひとつひとつの料理にとても繊細な気配りがあって、
食べる行為で、感動を紡いでいった、そんな感じ。
ああ、こんな料理を作れる人は、尊敬に値するなぁ。
ああ、しみじみと「幸せ」を感じるよ。
ああ、まだ生きていこう、石にかじりついてでも。
大げさだけれど、チカラをもらった。

■ 塀を壊そう
自分についての発見というか、反省というか、そういう気づきがあった。
そもそもは、お姉さま方との会話。
私はそもそも理屈っぽい性格で、何をするにも道理と理由を求めてしまう。
それは、私が実り多く生きていく為の方法論だと思っていたのだけれど、
彼女たち曰く、「自分の塀を高くしてそこに縛り付けている」様子らしい。

例えば、「将来、子供が欲しいか?」という問いに対して、
「子供を産むなら、今の状況では産めない。
まず今の仕事(システムエンジニア)と形態(契約社員)では、
育てながらは働けない。
育てるならば、できれば東京でなくて、田舎に帰りたい。
田舎じゃ、なおさら今の仕事は少ないので、仕事を変えなければならない。
して、今から何を生業とするというのだ?」
などと、とうとうと考え、そのうちに面倒くさくなり、
「まいっか」と放り投げてしまうのである。

ある程度は現実的な考え方も必要だけれど、そればかりに囚われていたら、
なにも変わらないし動かないのではないの?というのが、彼女らの意見。
新しいものも、生まれやしない。

反駁したい気持ちもあったけど、痛いところもある。正直に。
「仕事」とか「役割」とかいう大義名分があるときはともかく、
「私」という素のパーソナルな側面では、かたくなになりがちだし、臆病だ。
ひとと深く真摯に向き合うこと。特に、自分の感情を露出することが苦手だ。
そのことに罪悪感すら感じてしまう。「それは自分のエゴでしかない」と。
受身では対応するけれど、自分から向かっていくことは、ほとんどない。
もちろん、ここに至る経緯はたっぷりあるのだけれど、
それに拘り続けるのは、あまり意味のないことなのかもしれない、と。

少しづつ、内側から塀を壊してみよう。外の世界に、期待しすぎずに。